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一乗谷

観光案内

一乗谷(いちじょうだに)は、福井県福井市にある戦国時代の遺跡。一乗谷は戦国時代北陸を支配した朝倉氏の拠点で、当時京都を凌ぐと言われたほど優れた都市機能を持った城下町であった。1573年に織田信長に滅ぼされた後、一乗谷は現在に至る400年間全く使われなかった為に、戦国時代の都市の遺跡がほぼ完全な形で残されている。現在調査と共に、復原された城下町、現存する最古の日本庭園など、戦国時代がそのまま残っている。特に、日本中の城下町はほぼ全て江戸時代に形成・改修されているのに対し、一乗谷は戦国時代の大名の都市が残っている。

観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】

復原町並み
料金:210円
時間:9:00~17:00

アクセス
福井駅からバスで一乗谷武家屋敷前まで。


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周囲の地図情報 一乗谷

詳細案内

一乗谷

種類:戦国時代 武家屋敷 城下町 歴史観光 小京都

一乗谷は、国の特別名勝特別史跡に指定されている他、発掘された出土品は国の重要文化財に指定されている。この3つが同時に指定されているのは日本では一乗谷しかない。それほど歴史的価値の高い遺跡である。

一乗谷の街は一乗川の両岸、長さ1.7km、幅500mに渡って広がる。渓谷は急峻な山に囲まれている要害で、山は竪堀の入った山城として整備されている。川の上流と下流には城下町へ入る城門が備えられていた。16世紀には、人工1万人以上の日本で三番目に巨大な都市であった。

一乗谷の城下町は越前朝倉氏7代目朝倉孝景が発展させた町で、応仁の乱の際京都より難を逃れた多くの僧侶や貴族、文学者が一乗谷に移り住んだ。その為、峡から持ち込まれた文化・技術・学問などが一乗谷に伝わり一乗谷の街を京都のように華やかにさせた。その為に、小京都と呼ばれる様になる。

16世紀の戦国末期、朝倉氏最後の当主朝倉義景が当主となる織田信長との戦いに敗れ一乗谷の絢爛豪華な街は全て焼き払われてしまう。

廃墟と化した一乗谷はその後都市として開発される事はなく400年以上静かに眠り続けた。現在45年にも及ぶ発掘作業が行われており、戦国時代の生活をそのまま現在残す貴重な遺跡として高い評価を受ける遺跡である。発掘・調査が終わったいくつかの場所では、戦国時代の町並みが復原されている。そこでは、戦国時代の商店街や武家屋敷、間取りから台所、お手洗いまで高さを除くほぼ全てが完全に復原されている。ここまで完全な形で戦国時代の城下町が復原されている場所は他に類を見ない。

復原町並み
遺跡は、各階級の武家、町民の生活様式や家屋の間取りの他に、上下水の様子から商売、花壇にいたるまでかなり正確な情報を調べることが出来ている。武家屋敷にある商店街やそこで何が販売されていたかまで詳細な情報が解明している。この商店街は、家禄の高い武家が町人に賃貸していたと思われる形跡が残る。井戸や、お手洗いなどの上下水の設備も詳しく再現されている。発掘された土壌や土器からは染料の成分が検出されたために、着物の染め物やが在ったと判明された。又鎧や刀の後も発見されており、有事の際は町民自らが刀槍を取り戦いに参加したと見られる。

メインの通りは、上屋敷からは奥まで見通せるが下屋敷からは見通せない特殊な作り担っている。これは一乗谷でしか見られない「遠見遮断様式」と呼ばれる高度な建設技術である。一つ一つの間取りは広く、火事の防御の為と考えられる。

中級武家の屋敷からは、井戸や畳の跡、庭園跡などが発見されており、性格に復原されている。畳というと高級なイメージで大名しか許されなかったと誤解しがちだが、当時の武家屋敷でも普通に使われていた事が分かる。また井戸からは大量の銅銭が発見された。これは信長に攻められた時に隠した物が、家主の死亡によりそのまま残された物と考えられる。

日本庭園
一乗谷の4つの庭園は、現存する最古の日本庭園である。その為に、国の特別名勝に指定されている。戦国時代の城下町の様子を現在も良好な状態で保存され、庭池と石組みを見事に組み合わせた林泉庭園、立石や伏石の枯山水庭園など、様々な様式の庭園があり、室町時代の庭園の構造を良く伝える。

朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前朝倉氏13代当主で朝倉氏最後の当主である。義景の義は13代室町将軍足利義輝から賜った。義景は朝倉宋滴の補佐を受け、朝倉氏の栄華を築く。宋滴は朝倉一族の猛将で、30万の一向一揆を1万1千の兵で鎮圧するなどの手腕を振るった。

しかし、1555年に宋滴が亡くなると軍事と政務の両方を担当することになってしまう。

1565年に、将軍義輝が松永秀久に殺害されると、後の将軍足利義昭を一乗谷に迎え入れる。義景は義昭の生活を支援するも、義昭の将軍任命への支援は一切行わなかった。その為、義昭は岐阜の織田信長を頼って去ってしまう。

1567年には家臣の堀江景忠が加賀一向一揆に通じて謀反を企てる。しかし、この反乱を完全に平定した義景は加賀の国も完全に支配下に治める。

1568年には、若狭武田氏の内紛に乗じて介入し、若狭も支配下に治めるなど、義景は朝倉氏の最盛期を築く。しかし、領土拡大に伴い次第に政務を放棄し始め、朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになった。

同年、足利義昭が15代将軍になると織田信長の勢力はいよいよ強くなる。しかし、信長の傘下に加わる事を義景は拒み続ける。信長の京都への上洛命令を拒むと、1570年、信長は徳川家康と共に一軍を率いて越前討伐に出ることになる。

しかし、この時は近江の浅井長政が信長を裏切り朝倉に着いた為に、信長を撃退する事に成功するが、信長はすぐに兵を再び起こす。朝倉・浅井の連合軍は姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗退してしまう。しかし、9月には義景は反撃し、近江坂本を襲撃し信長の武将を殺害し、延暦寺に陣をはる。

そこで信長は越前と近江の間に砦を築き、浅井と朝倉を完全に隔離する。1572年には信長は浅井の本拠地小谷城を包囲する。義景は援軍を送るが、砦に阻まれて十分な援軍とならずに浅井は徐々に締め上げられていく。信長は調略の使者を次々と越前に送り朝倉の内部分裂を計る。

1573年には、武田信玄が織田信長討伐を掲げて京都に上洛を開始する。信玄の作戦では信長を西と東から挟み撃ちにして滅亡させる予定であったが、義景の軍勢は砦と豪雪に阻まれてついに信玄に加わることは出来なかった。この知らせを受けた信玄は、激怒するもすぐに病死してしまう。信玄の軍勢は甲斐へ引き返せざるを得ず、信長はこの好機を逃さずに浅井と朝倉の滅亡を計る。

同年8月、信長は3万の兵士を率いて浅井討伐に向かう。義景は援軍を指示するが重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣する事になる。

しかし、義景は信長に完膚無きまでに叩きのめされ敗走してしまう。信長の追撃は厳しく、義景が一乗谷にたどり着いた時には、10人程度の側近のみと成ってしまった。2万の軍勢が壊滅したことを知った一乗谷の将兵の大半は逃走してしまう。

義景は、一乗谷を放棄し大野に居る従兄弟の朝倉景鏡を頼るが、景鏡は既に信長に通じており、諦めた義景は賢松寺にて自害する。享年41年。

辞世の句:
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」

40年の我が人生は、嵐のようであった。他が為でも無く、我が為でも無かった。所詮、全ての出来事は全て宇宙に帰るのみである。

四大本空は、五輪塔を指す。朝倉孝景が五輪塔を用いたことから、先祖の英霊にかけている。空は「宇宙」を意味する。

オフィシャルホームページhttp://www3.fctv.ne.jp/~asakura/