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柳生の里

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柳生の里(やぎゅうのさと)は、奈良県にある柳生一族の郷。戦国末期から江戸時代に活躍した有名な剣術家・柳生石舟斎宗厳の柳生新陰流が生まれた場所でもある。柳生一族にまつわる多くの名所がある。宮本武蔵と並び江戸時代の剣豪として知られる柳生十兵衛三厳の墓や、植えたといわれる杉、彼が開いた柳生新陰流の道場などがある。一族の墓がある芳徳寺には、十兵衛が書き記した武芸日記などが展示されている。山奥には石舟斎が修行の際に真っ二つにしたとされる巨大な岩がある。

観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】

駐車場で名所巡りの地図がもらえる。

アクセス
奈良駅からバスで柳生まで。


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柳生の里

種類:柳生十兵衛三厳 歴史観光 剣豪 忍者の郷

柳生の里は、奈良県にある柳生一族の郷。日本で最も有名な剣術の一つ、柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎宗厳の故郷であり、厳しい修行の末に開眼した場所でもある。宗厳の息子・柳生宗矩は、柳生新陰流を幕府に披露し、その実力を認めさせ家康、秀忠、家光と三代に渡り剣術の指南役を行ったほか、柳生新陰流を将軍家の剣術として代々指南する事に成功する。宗矩は、政治的手腕も発揮し、将軍の警護、相談役、諜報活動など多岐に渡って活躍する。柳生一族は忍者としても優れた能力を持ち、剣術指南を各藩で行う傍ら、諜報活動も行っていたと考えられる。

宮本武蔵と並び剣豪として有名で人気の高い柳生十兵衛三厳も、晩年はこの地に留まり道場を開き若き剣術家を指導していた。芳徳寺には、柳生一族の数々の遺産が展示されている。

柳生石舟斎宗厳
石舟斎は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した剣豪の一人。上泉信綱から新陰流を継承し、柳生新陰流を開いた。戦国時代は一時筒井順慶、後に松永久秀の家臣となるも、柳生に隠遁し独立勢力として柳生を支配する。しかし、1585年に羽柴秀長が大和に入ると、太閤検地によって隠田が摘発され、柳生の地を没収される。

1594年に徳川家康の前で家康を相手にして無刀取り「真剣白刃取り」を披露し、剣術指南役となる。指南役には宗矩を推挙し柳生に再び隠棲する。この時、柳生は500石の所領を受ける事になり、柳生の里は再び柳生一族の所領となった。墓所は芳徳寺にある。

柳生の里には、石舟斎が天狗と戦った際にきりつけて真っ二つにした巨大な岩がある。

柳生宗矩
石舟斎の5男で、父の推挙によって家康に仕える事になる。1600年の関ヶ原の戦いでは、筒井氏や大和の豪族と共に西軍の後方牽制によって武功を立て、柳生庄を2000石まで取り戻し、大名の仲間入りを果たす。1601年には秀忠の剣術指南役となりさらに1000石加増され、大身旗本となる。1615年の大坂の役では、秀忠のもとで従軍し、秀忠を襲ってきた武者を瞬く間に切り倒し秀忠を救った。その後、三代将軍家光の剣術指南役ともなる。その家光の信頼を得て1629年には但馬守に任官する。その後さらに3000石の加増、初代幕府惣目付けとなる。その後も功績を挙げ続け最終的には1万2500石まで所領を拡大させた。一介の剣術家から1万石を超える大名にまで伸上がった人物は、剣豪と呼ばれる人物では日本史上宗矩だけである。1646年、没。享年76歳。

柳生十兵衛三厳
宗矩の長男で隻眼の剣豪として宮本武蔵と並び人気の高い剣術家である。愛刀は三池典太(小典太)。その実力は、天才にして梟雄と評される。徳川家光の小姓として仕え、後に剣術指南役をつとめたが、20歳で勘気を被り、小田原の阿部正次にお預けの身となる。その後、詳しい足取りは不明であるが、柳生藩に2代藩主として戻り、正木坂道場を開き柳生新陰流の指導を続けたと見られる。隻眼の剣士として描かれるが、資料や記録には隻眼であるという記録は無い。1650年、没。享年44歳。

(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)