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桶狭間の戦い

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桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、戦国時代織田信長と今川義元の間で行われた合戦。織田信長は奇襲作戦を用いて圧倒的不利な状況で電撃的な勝利を収めた戦国時代最も壮快な戦いである。この時、信長は僅か2千の兵士を率いて義元が率いる2万5千の大群を打ち破った。この戦いによって信長の覇道は始まり、また今川氏は没落していく。また、三英傑のもう一人徳川家康も今川義元の武将として参加している。歴史の分岐点の1つの戦いである。

観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】

アクセス
名鉄名古屋線中京競馬場駅周辺。


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桶狭間の戦い

年月日:1560年6月12日
主戦場:桶狭間、田楽狭間
交戦勢力:織田軍 VS 今川軍
兵数:織田信長(2千)、今川義元(2万5千)
結果:織田軍勝利、今川義元討死

16世紀戦国末期、三河を支配していた松平氏が二代続けて反乱によって早死にすると、三河の勢力を求めて、尾張織田勢と駿河今川勢が争いを始める。1548年に小豆坂の戦いで織田信秀相手に勝利した今川義元は、三河を支配下に治める。その後、信秀は没し後を継いだ信長の将来を見限った、三河の鳴海城主・山口教継は、大高城、沓掛城の城主と共に今川方に寝返る。この事で、信長は三河の支配を完全に失ってしまう。信長は領地回復の為に、1559年頃から砦を幾つも築き大高城、鳴海城の攻略を開始する。

1560年5月12日、義元は2万5千の兵を率いて各城の救助と尾張の制圧を兼ねて尾張の信長の侵攻を開始する。

この時、信長の本拠地である清洲城で軍議が開かれていた。当時信長が集められる総兵力は僅か4千で、2万5千の大群に対抗する為には籠城しかないとの意見が占めた。軍議の最中信長は沈黙を守り続けた。

6月11日、徳川家康(当時松平元康)は今川義元の軍勢として従軍し、大高城に兵糧を入れると共に取り囲む信長の砦の攻略を行っていた。又、義元は兵の大半を部下に与え清洲城を攻略を命ずる。義元は残りの兵5千を率いて、沓掛城に本陣を敷く。

6月12日、深夜突如信長は幸若舞「敦盛」を踊ると単身で出陣する。彼の部下も慌てて信長を追いかけて出陣する。大群に攻め込まれた信長は奇襲にて義元を討ち取る以外に勝利を収める方法は無いと考えていたと見られる。その為に、奇襲作戦は隠密で迅速に行われる必要があった。信長は義元が兵力を分断し本体を守る手勢が薄くなる瞬間を待っていた。勝機を見出した信長の行動は早かった。信長が城を出陣したのは午前4時頃である。

朝8時に熱田神宮に到着。勝利を祈願すると兵招集の号令をかける。朝10時に鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に到着。集まった兵士は2千となる。同時期、大高城を包囲していた丸尾砦と鷲津砦が家康によって攻略される。この報を聴いた義元は、5千の兵士を率いて大高城へと移動を開始する。

善照寺砦で控えていた信長は諜報を張り巡らせ義元の所在を調べる。義元の所在が判明するとすぐに出陣する。

午後1時、突如大雨が辺りに振り付ける。この大雨の為に両軍は完全に情報が遮断されてしまう。しかし、信長は逐次義元の所在地を確認していたと見られる。

午後2時、大雨はやむと休憩中で在った義元の陣営に信長の軍隊は奇襲をかける。沓掛城をでて大高城へ行軍中であり、田楽狭間で昼食中であった義元の軍勢は信長の軍勢を予期していたとは思えない。兵士の士気も最高潮で準備万端で在った信長の兵2千と、完全に油断していた義元の5千の軍隊では戦いにならず信長の奇襲は成功する。しかし、義元の兵士の抵抗も激しく最終的には信長自身も馬を下りて槍を手に戦う混戦となる。しかし、部下の奮戦虚しく義元は信長の武将毛利新助によって討ち取られる。

大将を討ち取られた今川勢は完全に瓦解し敗走する。この時、三河を支配していた駿河の武将も皆駿河へと撤退してしまった。信長は人生最大の危機をこの電撃勝利によって乗り越える事になる。そして徳川家康は、この混乱に乗じて今川氏から離反独立し、松平氏の領土である三河の領土の失地回復を行うと共に織田信長と新たな同盟関係を結ぶ。この戦国時代を終わらせる同盟は信長の死の瞬間まえ続く事になる。又、当主を失った今川氏はその後、徳川家康と武田信玄、北条氏康によって攻め込まれ滅亡してしまう。

この戦いは、戦国時代の終焉を知らせる戦いであったとされる。


(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)