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会津戦争

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会津戦争(あいづせんそう)は、1868年に起きた戊辰戦争最中に行われた戦闘の1つ。函館で行われる戊辰戦争の最後の一頁の前に行われる局面で、戊辰戦争最大の悲劇と言われる。会津を中心に、幕府軍と新政府軍の間で行われた戦争で、会津藩は武家社会の悲劇を一斉に引き受けて滅亡し江戸時代の終焉を知らせた。又、新撰組の斎藤一も参戦している。土方歳三はこの時会津の温泉で傷の養生を行っていた為に参戦していない。

観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】

全部巡るには車が必要。

アクセス
会津若松城周辺

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周囲の地図情報 会津戦争

詳細案内

年月日:1868年6月10日から11月6日まで
主戦場:会津若松
交戦勢力:新政府軍 VS 旧幕府軍
指揮官:新政府軍(板垣退助、伊地知正治) 旧幕府軍(西郷頼母、大鳥圭介)
結果:新政府軍の勝利 会津城開城

会津戦争は、戊辰戦争最大の局面の1つで、侍文化が起こした最大の悲劇と言われる。1868年1月に、会津藩と徳川幕府軍は鳥羽伏見の戦いで敗北。3月には江戸城が無血開城となる。この時、徳川幕府は完全に瓦解し名実共に滅亡してしまう。しかし、旧幕府に忠誠を尽くす東北の大名は新政府を相手に奥羽越列藩同盟を結成する。

北上する新政府軍相手に交戦するもまず、白河城が落とされてしまう。この為東北の玄関が新政府軍に開かれてしまう。9月には二本松城が落城。会津藩は完全に孤立してしまう。

会津藩は、非常事態宣言を発令すると全ての住民に戦争参加を要請する。全ての成人男性および、10代の青年も徴兵され、戦争に参加する。この時の10代の青年があの有名な白虎隊である。

二本松城の落城の報が入ると、会津藩は会津への進入路全てに守備兵を配置する。10月6日、新政府軍は母成峠を2000千の兵を持って攻略を開始する。母成峠は猪苗代湖に侵入するルートの1つで新撰組を率いた斎藤一も防衛に参加していた。守備兵は700人いたが、板垣退助、伊地知正治が率いる新政府軍の西洋式の新兵器の前に、会津藩はすぐに敗走してしまう。旧幕府軍も戦線を支えられずに撤退する。この時、斎藤一は会津藩と運命を共にする事を決意し、怪我のために戦線に参加出来なかった土方歳三は北へと退却する。

母成峠を通過した幕府軍はすぐに会津に侵攻する。会津藩は白虎隊を派遣する。しかし10月8日には、最後の砦である、十六橋が突破され翌日には新政府軍は会津への進入を果たす。

会津藩は総員で他の同盟の援軍の到着を待つために若松城に籠城することを決意する。20人の白虎隊の隊士も猪苗代から戻ってくるが、若松城は既に包囲されていた。入城することが不可能と悟った白虎隊は不名誉な捕虜と成るよりも自刃を選ぶ一同全て飯盛山で切腹してしまう。会津藩が育てた武士としての生き様が若い隊士の命を奪うことになった。隊士の一人飯沼定吉は、生き残り後世に白虎隊の悲劇を伝える事になる。

もう一つの悲劇は、会津藩の武家の妻と娘である。籠城に参加出来なかった武家の女性達は白虎隊と同じ理由で自刃する。200名を超える会津藩の女性は子供ともに自ら命を絶った。特に、会津藩筆頭家老・西郷頼母の邸宅では21名が自殺した。若松城は新政府軍に包囲されながらも1ヶ月籠城し、11月6日に開城する。

会津藩士は政治犯として下北半島へ流刑される。戦闘で死亡した会津藩士の死体は会津の町に放置され朝敵として埋葬処か触ることも許されなかった。その後6ヶ月も晒された死体は、最終的に長命寺と阿弥陀寺に埋葬が許された。斎藤一は、若松城で最後まで戦い生き残る。彼は明治の終わりまで新撰組の最後の組長として生き残り、同胞の眠る阿弥陀寺に埋葬された。

会津戦争は戊辰戦争で起きた最も悲惨な悲劇である。多くの人間が武家社会の価値観に捕らわれ自刃した。会津藩の崩落こそ、江戸時代の終焉の知らせ、又は最後の侍文化の慟哭である。

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