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長篠・設楽原

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観光案内

長篠・設楽原の戦い(ながしの・したらがはらのたたかい)は、愛知県新城で戦国時代に行われた合戦。1575年、武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が戦った合戦で、日本史上最も有名で人気の戦いの一つ。信長の鉄砲3千丁の3段構えによる一斉射撃によって、戦国最強の甲州の騎馬隊が次々に撃退された事で知られる。

観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】

設楽原歴史資料館にて縁の地廻りの地図が手に入る。

アクセス
JR飯田線、三河東郷駅周辺。

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周囲の地図情報 長篠・設楽原

詳細案内

年月日:1575年7月9日
主戦場:長篠城と設楽原
交戦勢力:織田・徳川連合軍 VS 武田軍
兵数:連合軍3万8千 武田軍1万5千
結果:連合軍の勝利

長篠の戦で知られる設楽原の戦いは、1575年に武田信玄の後継者・勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が熾烈な戦いを繰り広げた戦いである。織田信長の興隆と武田勝頼の滅亡への分岐点として知られる決戦であり、また日本で始めて鉄砲が大規模な形で戦闘に用いられた戦いでもある。織田信長の3千丁の鉄砲による馬防柵と3段構えによる一斉射撃は有名であるが、これはフィクションであるが、大規模な鉄砲隊と馬防柵が用いられたことは事実である。

戦いは、1575年4月家康の支城である、長篠城が武田勝頼の軍勢1万5千によって包囲された事から始まる。長篠城は、三河と遠江と信濃の三つの国の国境にあった、徳川家康の防御の要の城であった。この城を失うと家康は居城の浜松城は、三河と分離されてしまうため失うべからざる城で在った。しかし、守備兵は僅か500。家康は急ぎ同盟者の信長に支援を求めると同時に自ら援軍を率いて長篠城へ向かう。

6月21日に、信長と家康は岡崎城に終結した。信長の兵数3万、家康の兵数は8千である。この時、宿敵朝倉氏を滅亡させていた信長は、用いれる最大の兵数を用いて出陣するが、未だ四面楚歌である信長はなるべく損兵の少なく戦うために、馬防柵などを用意して本陣もなるべく後方に敷き戦いにのぞむ。

しかし、家康は宿敵武田家に致命的な損害を与えるべくその機会を伺っていた。勝頼は3千の兵士を長篠城の包囲に残し、西側に本陣を移し作戦会議を行う。1万2千の兵で3倍の3万8千の連合軍とどう戦うか。勝頼が何故このような無謀な戦いに挑んだかは不明であるが、亡き信玄の野望をかなえる為には、ここで冒険に出る必要があったことは理解できる。

勝頼は4つの砦を鳶ヶ巣山に築き長篠城を包囲していた。6月28日、勝頼の本体が西に移動した後、家康の重臣・酒井忠次や信長の金森長近などの軍勢3千が砦を撃破し、長篠城を包囲から救い出す。この時点で勝頼は重要な武将の何人かを失った。この時には、まだ勝頼は武将を失った以上に退路を断たれた状態になる。

この間も、信長は馬防柵を長さ2キロにわたって川沿いに築き戦いに備えた。信長は援軍に向かう際すでに木材を兵に運ばせていた為に、当初からこの馬防柵の構想はあったと考えられる。

長篠の戦の主な決戦の要因の一つは天気であった。梅雨も終わりつつある6月29日である。勝頼とその部下はまだ鉄砲は使えないと判断した。しかし、決断を遅らせれば雨が上がり勝機を失う恐れがあった。また信長の防御が完成しつつもあった。勝頼は決断を迫られる。

物語では信長は3千丁の鉄砲を用いて三段構えの一斉射撃を行ったとされる。しかしこれは作り話で、確たる証拠は一切無い。信長が用意できた鉄砲の数はこの時は千丁程度で在ったとされる。これでも当時としては最大の鉄砲隊であったのは事実である。

6月29日早朝、両軍は長篠城より西方にある設楽原で激突する。設楽原は、小さな渓谷で、川を挟んで両岸300mの小さな戦場である。この戦いにおいて、勝つよりは両翼を広げ敵を包囲殲滅する戦法を試みる。この戦法は歴史上、アレキサンダー大王やハンニバルなどが少数の兵士で大軍を打ち破った先方で、両翼のいずれかが敵陣営を突破し敵の本陣を付くことで瓦解させる戦法であった。その為、右翼には馬場、真田兄弟、土屋を配置、左翼には山縣、内藤など信玄以来の歴戦の猛将を配置する。

当然、信長もこの事は理解し、彼は千丁の鉄砲を半分に分け両翼に配置する。この戦いの要は本体が両翼が突破するまで戦線を支え続けなければならない事である。徳川家康は右翼に位置し勝頼軍の左翼と対決する。信長の左翼は、丹羽長秀や羽柴秀吉が勤めた。戦闘は、早朝開始され、昼までおよそ8時間続いた。土屋昌続は、信長の防御の第二陣まで突破し最後の防柵までたどり着いたところで一斉射撃を受け玉砕する。真田信綱、真田昌輝の兄弟もまた同様に討ち死にしてしまう。

戦況が大きく変化したのは、武田軍の中央を率いる、武田信廉、武田信豊、穴山信君が突如戦場を放棄し撤退してしまう。勝頼のとった戦法は中央本体が敵の攻勢を受け両翼を支えることで勝機が生まれるが、本体が撤退してしまうと、両翼は簡単に敵軍に包囲され殲滅してしまう。

武田軍の最も重要な武将の一人馬場信春は身を犠牲にして勝頼を救いだすが、武田軍は完全に瓦解してしまう。

この戦いで、連合軍6千、勝頼は1万2千の戦死者を出したと伝えるがこれは物語であり、おそらくは連合軍は600人程度、勝頼は1000人程度であったと当時の経済規模をから推測される。兵士の損失よりも深刻であったのは勝頼は名だたる武将の殆どを失ってしまった事にある。敗因を作ったのは、勝頼の命令も無に撤退してしまった武将で、勝頼の武田家の親族であった。親族であるが、武田信玄以降最も信用できない武将である。信玄は彼らの重要性を下げ、外様から多くの重要で信用できる武将を登用し続けた。真田氏などがその例に挙げられる。勝頼の命を救ったのはこの信玄恩顧の外様の武将達で、この戦いで勝頼はその殆どを失ってしまった。

長篠の戦の後、信長はついに東の脅威武田家の撃退に成功する。家康もまたこの戦いの直後、二俣川や高天神城など家康にとって重要な支城を勝頼より奪還する。そして、信頼できる部下を失い、勝頼の人望その物もまた失ってしまった勝頼と武田家は滅亡の一途を辿る事になる。

そして設楽原で最初に勝手に撤退した武将穴山信君こそ、信長と内通し勝頼を最初に裏切った武将である。しかし、信君もまた本能寺の変に巻き込まれ明智光秀の軍勢に討ち取られてしまう。裏切り者の末路は何時も哀れであるかもしれない。

(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)

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