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妙大寺

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観光案内

妙大寺(みょうだいじ)は、神奈川県大磯にある日蓮宗の寺院。1461年に日悟聖人に開山された大磯の古刹である。境内には松本順や樋口季一郎、福田恆存など有名人の墓所がある。

参拝情報
駐車場【無】
トイレ【無】
小さなお寺です。観光地では在りませんのでマナーを守ってお墓参りしましょう。

アクセス
大磯駅から北へ徒歩5分。

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周囲の地図情報 妙大寺

詳細案内

宗派:日蓮宗
開山:法性院日悟聖人
創建:1461年
正式名称:乗勝山妙大寺

乗勝山妙大寺は、1461年に開山した日蓮宗の寺院である。松本順や樋口季一郎、福田恆存、相楽俊輔などが葬られている。

樋口季一郎
陸軍中将(1888-1970)
樋口季一郎は、第二次世界大戦の直前にナチスに迫害された多くのユダヤ人を救った英雄である。この事件はオトポール事件と呼ばれ、現在もイスラエルとユダヤ人との重要な絆を築いている。また、同大戦では札幌に司令部を置く北部軍司令官として、ソ連軍を撃退し北海道の占領を防いだ今日の日本を守った将軍でもある。

樋口は兵庫県淡路島で生まれる。陸軍士官学校に進み優秀な成績で卒業し高級軍人となり、満州、ロシア、東欧と駐在武官として様々な国に赴任する。この時、日本軍一のロシア通になると供に日本人を暖かく受け入れてくれたユダヤ人に対して親近感を抱く様になる。

1937年に第一回極東ユダヤ人大会が開かれた際、少将としてハルビンに赴任していた樋口は大会に派遣され、同盟国ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と演説し列席したユダヤ人から喝采を浴びた。1938年3月、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人がシベリア鉄道・オトポール駅で満州国に入国出来ずに足止めされる事件が起きる。当時の日独関係を考慮した満州国の外交部が入国の許可を渋っていた為に、ユダヤ人達は極寒の地に滞在させられていた。樋口は独断の判断で満州国の国境を解放を上層部に願い出る。東条英機を説得し、ビザの発行を促すと供に、満州鉄道に特別列車を用意させユダヤ人の入植を斡旋した。また部下に命じて即日給食と衣類・燃料を配給して彼らの亡命を助けた。樋口が開いた樋口ルートはこの後3年間解放され続け多くのユダヤ人の亡命に成功した。その総数は5千人とも2万人とも言われる。この事件はオトポール事件と呼ばれる。

1938年に日本に召還される。1939年に第二次世界大戦が勃発。樋口は1942年に中将に昇進。札幌に司令部を置く北部軍司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮した。1945年敗戦が決定的となった日本に不可侵条約を一方的に破棄したソ連が千島列島・樺太に侵攻してくる。ソ連の目標は北海道の占拠であった。ポツダム浅間を受諾し、大本営が機能していない中樋口は戦闘を指揮しソ連軍を撃退。千島列島最北端にある占守島を死守し、ソ連軍を一歩も侵攻させなかった。敗戦撤退準備の中、日本軍は勇敢に戦い、ソ連に勝利したのである。この間、GHQ軍が北海道に到着。ソ連の侵攻は終わった。日本軍の犠牲者は600-1500人、ソ連は1500-4500人以上の死闘であった。樋口の奮戦により北海道はソ連に占拠されずにすんだのである。樋口は日本の今日の朝鮮半島の様な分断統治を防いだと行っても良い。しかし、大本営の命令でとは言えアッツ島玉砕を指示する事になった樋口は、戦後オトポールでユダヤ人を救った事や占守島の勝利をあまり語らずに過ごした。

終戦後、ソ連の野望を打ち砕かれたスターリンは樋口を戦犯に指名し引き渡すように迫った。この時、世界ユダヤ人協会はいち早くこの動きを察知、世界中のユダヤ人コミュティが樋口救出運動を展開、結果としてマッカーサーは引き渡し要求を拒否し樋口の身柄を保護した。樋口はその後、アメリカ軍から特別軍事顧問として招待を受けるがこれを断り、戦後は家族と静かに過ごした。

墓所が大磯にあるのは生前過ごした大磯の空気を気に入り、この地で眠りたいと考え、菩提寺をここ妙大寺に移した為である。彼の熱烈な支持者であった、相楽俊輔は「眠るなら閣下の側」と樋口の側のに墓所を構えている。

2009年に岐阜市役所前の公園で樋口の偉業を称え、イスラエルからオリーブの木が贈呈された。現在も2万人のユダヤ人を救った英雄としてイスラエルでは崇敬されており、イスラエル建国功労者としてゴールドブックにもその名が記されている。

松本順
松本良順(1832-1907)。従五位、男爵。江戸麻布に佐倉藩藩医佐藤泰然の次男として生まれる。幼名は順之助。父泰然は佐倉順天堂の始祖である。幕府奥医師松本良甫の養子となり、幕府に出仕。1857年に長崎伝習御用を命じられ、オランダの軍医ポンペより西洋医学を学んだ。1862年に奥詰医師となり、翌年には奥医師に昇り、医学所頭取となった。1866年、第二次長州征伐に際して十四代将軍徳川癒家茂に従って大阪城に行き、家茂の臨終を看取る。また、会津藩の配下にあった新撰組局長近藤勇とも交流があり、隊士の診療も行っている。1868年に幕府歩兵頭格医師、大政奉還後は奥羽列藩同盟の軍医の総取締となり戊辰戦争に従軍。会津戦争後に仙台より横浜に戻り潜伏するが捕らえられ一時投獄されるも、明治四年に陸軍卿山県有朋の要請により、陸軍軍医部を組織して初代陸軍軍医総監となった。1885年に公職を退き、大磯に隠棲した。そして、大磯に日本初の海水浴場を開設し大磯の発展に貢献した。

参考文献
「妙大寺誌」、早坂隆「指揮官の決断 満州アッシの将軍 樋口季一郎」

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