天守:非現存
城郭の種類:山城
天守構造:不明
築城年:16世紀
築城主:不明
二俣城は16世紀初頭に築城された山城。遠江を分断する天竜川が二俣川と交わり平地に流れ込む要所で、伊那と遠州を結ぶ重要な交通の拠点である。その為、戦国時代には武田信玄と徳川家康によって熾烈な戦いが繰り広げられた。特に、1572年に行われた武田信玄の上洛の際は、武田信玄の大群に包囲され武田信玄の息子勝頼によって落とされてしまう。この時、家康はわずかな兵士しかなく援軍を出せずにいた。その後、信玄は家康の浜松城を攻めずそのまま三河へと向かう。家康は決起して、戦場に出るが、三方ヶ原で大敗してしまう。その後すぐに信玄が陣内で病没するも、結局二俣城を武田氏より奪還することは適わなかった。家康は北の防御の拠点を失ってしまう。
1573年に、今度は家康は東の最前線高天神城までも奪われてしまう。家康にとっても困難な年であった。しかし、その後長篠の戦いで勝利した家康は徐々に勢力を回復。二俣城を再び取り戻す。
1579年、武田氏との内通を信長に疑われた家康の長男・信康がこの城で切腹する。
現在は、遺構として石垣や、堀、天守台、曲輪などが残る。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)